2015年8月17日月曜日

オルガンと手風琴-「オルガン」2号の感想


 

 俳句同人誌「オルガン」2号をおもしろいなと思って読み、少し感想が書きたくなった。
 なので自分のブログに少し書いてみることにする。
 「オルガン」は生駒大祐・田島健一・鴇田智哉・宮本佳世乃の四人の同人誌で、この号はほかに福田若之がゲストとして座談会に参加している。
 通読しておもしろく思ったのは、同人どうしのあまり子供っぽくはない緊張感が、座談会や相互の作品からうかがえるようなところがまずひとつある。また意識してか無意識なのかは私にはわからないが、「品の良さ」と「俳句に対する敬意」が水槽の中の水のように、冊子の誌面に一様にあると感じられるところも面白かった。
 四人の同人には、「俳句に対する敬意」というもの言いに違和感や反感を感じる人もいるのかもしれない。
 それはそれでしょうがないのだが、少し付け加えると、今さっきのの文面での「俳句」というのは、大きな意味での詩のジャンルとしての俳句というよりは、「文化としての俳句」という感触がある。
 1962年生まれの私は、坪内稔典編集の「現代俳句」の中盤あたりをリアルタイムで読んだ下限あたりの世代と思っているが、坪内の「現代俳句」には「俳句に対する敬意」を抑えつけるような形で「時代に対する敬意」というものがあったように思う。その「時代に対する敬意」というのは順接的なものでもあり、逆説的なものでもあったとも思う。他の場所でも度々引用したもので申し訳ないが、坪内が「現代俳句第六集」の帯に書いた

「定型に日が射し秋の風が吹く
 火傷しそうな君に会いたい」

という文言にそれはこめられていたようにも思う。反逆的なモラルや孤立と連帯をめぐるロマンチズムの中で「俳句」というものを考えずにはいられなかったこころが、書かせたものだろうとは思う。それはそれで「当時」という「時代」への敬意だったのではないか、とは時を経て今思うことなのですけれどもね。
 「オルガン」はもちろん2015年発行の俳句誌なので、2010年代的な微妙な「生」そのものへの不安やその中での個人の求心的な達成の感覚を中心に作句や発言がなされてるように思えます。誌面が俳句作品と二本の座談会でのみ構成されてる、というのも、他に理由があるのかも知れないけれども、(単に誌面のスペース上の問題だとか)余裕を持った禁欲という少し今の時代の「風」のようなものに寄り添っているような感触もある。
 全体のことはこのくらいで、作品の感想などを書いてゆきます。
 引用する句は、それなりに惹かれた句です。

 待たされて苺の夜に立っている/田島健一

 噴水の奥見つめ奥だらけになる/田島健一


 「俳句」そのものをひとつの「典型的な文体」ととらえた上で、その「文体」に違和をとなえるような作風で、それはそれで現在の俳句というのは大なり小なりそのような書き方をしているとは思います。あとはその「典型的な文体」との離れ方、にどのような「個性」を持たせるか、になるわけで、そんなことは少しも書かれていないのに、句に「ファミリー感」とでもいうようなベーシックな家族生活者の風貌が見えてしまう、というのが、
読みどころなのかもしれません。


 ひあたりが果物よりも固い蟻/鴇田智哉

 日録が雲海へほどかれてゆく/鴇田智哉


 俳句の言葉に自在な感覚を持たせたい、と思って書いてるような俳人というのは少なくないのでしょうが、そううまくはいかないですわね。作句された句の言葉と作者の間に鵜飼いと鵜のようなつながりを私は感じますが、そこから先のことは私にはあまり言いようがないですね。


 箱庭の砂のあまつてをりにけり/宮本佳世乃

 ホーミーが虹に届いているところ/宮本佳世乃


 句集『鳥飛ぶ仕組み』はおもしろく読みました。軽さと重さのバランスのいい作者だと思うのですが、そのバランスの良さはそのまま軽さにつながってしまったりするので、多少損をすることになる作風かもしれません。


 六月に生まれて鈴をよく拾ふ/生駒大祐

 鷹を描きその他は青を載せ続く/生駒大祐


 同人四人の中では一番生年が新しいようで、その分私には一番遠い俳句の作り手という感じもします。ただそういう私なら私との年齢差とかは基本どうでもいいことなのではないか、というのもあります。「六月」の句は、少し残っていきそうな句ではないか、と考えたりはします。短歌・俳句・川柳それぞれ一句には「命運」のようなものがあって、のちのちまで語られたりする作品になることには評価とか時代性とはまた何か違う「それ」があるようには思ったりします。

 二本の座談会には、俳句総合誌の座談会に感じられる無意識の読者幻想の拡大化と概念化のようなものがあまりなく、新しすぎない「現在の俳句の詠み手」の俳句に対する感触、のようなものが私には感じられました。再生産的な感触がいつもどうしても漂う俳句の世界において、その再生産的なものの価値をどのように止揚なり位置づけなりするか、ということ。それと、俳句の実際の作り手としての「もっと読まれたい」という「色気」のようなものをどんな風に「変圧」していくか、という結構な難題への模索、でしょうか。
 一本は村上鞆彦の句集『遅日の岸』の書評座談会で、二本目は鴇田智哉の質問状にそれぞれが答える形のものです。その質問のひとつめが、

「Q1 あなたは俳句を書くとき、どのような読者を想定していますか?」

というものです。それぞれの同人の答えと問答は座談会を読んでいただくとして、私も答えてみたいので書きますね。(お前はそれが書きたかったんだろうという人もいて当然ですね。まあ自分のブログなのでそれはそれでいいのでは。)ここ数年ツイッターのアカウントで書いていたような基本4行の句は、前提としては「ツイッターの使用者」ということになりますね。その上で「自分のような詩歌の享受者、読者」もう少し言うと「1979年、80年、81年あたりに吉本隆明や菅谷規矩雄を読んでいたような(なおかつ今生存している)人」を意識してるとは思いますね。私はそういう人はあんまり2015年の今、「(本屋にいっても買って)読む本がない」という思いを持ってるのではないかと感じます。何も吉本や菅谷の本や書くものが素晴らしいとかそういうことではないので、そこだけ付け加えますけどね。
 ただそういうのは書き手の意識としては「続かない」ですね。
 というようなところで。夏が徐々におとろえていくような、八月のなかばの午後でした。

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