2014年5月25日日曜日

【俳句】青木重治トリビュート



 上記の画像はツイッターで石原ユキオさんにお見せしようとあげたもの。
 俳句空間で新人賞を頂いて、載せてもらった20句である。今から考えるとこのころとても好きだったし、もっと世の中で広く読まれるようになると思っていた青木重治の長律作品のトリビュートというかオマージュというかになってる20句である。
 ただ私自身がまだ俳句をやっていたころの青木に手紙を書いたりしたかというとそんなことはない。俳句や短歌はただでさえ労が多くて効の少ないジャンルだから直接的な反応に触れないとどれくらい読まれているかなど自分ではかりようがない。
 どなたかが最近宮入聖について、どこかで別名でひっそりと俳句を作っているのかも知れない、と書いていたらしいが、ひょっとしたら青木もそんな風に俳句とどこかでつながっているのかもとは思う。そうなっていてほしいと思うわけではないけれど。

<これはCDロムです・これは>イケヤ・セキ彗星

という句について少しだけ自注めいたことを書いておきたい。
妹尾健太郎がなぜかこの句に少し興味を示してくれたことがある。山カッコの部分は、ゲームのCDロムなどを音楽CDプレーヤーでかけようとしたときに、注意をうながすアナウンスとして流れるものの一般的な言葉。CD自身が自分で自分のことをアナウンスするわけで、聞くと変な感じがしたがこういうトラックをわざわざ聞いてみることにひそやかな楽しみもあった。結句のイケヤ・セキ彗星は天文ファンには有名な発見譚を持つ彗星である。(私は別に天文ファンじゃないけれど)。ウエブのおかげでこういうものの説明もリンクひとつで出来るようになった。


2014年5月23日金曜日

【短歌】歌かとも見ゆるテキストファイル




書くことがついに昨日の三日月に届く クジラがはねる海原

あの夏の拾い損ねたおはじきがためてるはずの葉擦れのひかり

神はいて雨垂れとなり軒下の何の変哲もない石畳をえぐる

こころとは見えぬ虚空の水仙の夏の没日に逃げ惑う蝶

桜には桜の王がいるという嘘を子どもについちゃいけない

音韻にまみれしころの身体は山桃だった盲目だった

ジュスティーヌ 神のおはじき遊びにはかなしき水面の笑みを浮かべぬ

ジュリエット 夢のコルセットのために費やしたりし金貨の数は

樹はつねに水をその身にはしらせてなつの死霊をみまもるという

紀の川は身をまふたつに裂かれたる罪人のごとき支流を持つや

歌は石でも雲でもなくて校庭のすみれの空を刺すのぼり棒

あなたいま声明を口にしていたわ ルリボシカミキリだけで見ていたわ

からだからしみでる雨のかなしさをあなたに告げた葉桜の下

欲望の『よだかの星』をきんいろのゆうべのあかりに読み聞かせたい

花水木 お前にこころがあるのなら食われた鰈の稚魚のために泣け

2014/4/18



(この5月に大阪阿倍野の未来の批評会に参加。外部参加者も歌を出して評を受ける会とは知らかったけれどこの一連のうち最後から二首目の「欲望の」の歌を提出。やっぱり歌意が不明瞭なのであまり評ははずまなかったですね。批評会はおもしろかったです。)