2013年11月22日金曜日

黒瀬珂瀾と「率」創刊号の文章

「短歌」とは、「短歌を書くということ」は、つまるところ「河野裕子」になって「金井美恵子」にバカにされるか、「金井美恵子」になって「河野裕子」をバカにするか、の二者択一でしかないのではないか、とたまに思うことがある。もちろんこういうことを書くのははかなり河野裕子にも、短歌について懸命に考えたり取り組んでいたり、未知の未来の自分をそこに探るかに歌を書き付けている人に対して失礼なことになるだろう。そうした意識はしかし、自分以外の他者にはこうして書き付けた時に発生をするのではないか、とも思う。「内面」で思考しているならそれはただの「秘めた思い」だろう。「内面の自由」というのはそういうことであり、「畢竟の自由は内面にしかない」ということだろうか。
短歌同人誌「率」の創刊号の黒瀬珂瀾の文章を先日たまたま読み返した。
感銘を受けたので、少しそのことについて出来るだけ引用を減らすことをこころがけて書いてみたい。
黒瀬の文章は「■企画 自選歌への批評」という企画のもとに書かれたもので、自作の短歌に自分で批評を加えてほしい、という依頼に答えたものである。それぞれの執筆者は自作とその周辺に誠実に対応して書いていると思った。
黒瀬の一文はまず「短歌」と「読者」の原理的な関係を述べるところからはじまり、短歌の批評は短歌自身の可能性をいかに模索出来るかという問いなのだろう、と一端結論づけている。断定を避けているのはあまりにも広がった2010年以降の短歌の「享受=受容」の様相に黒瀬の柔軟な人間性が反応しているからだと私には思えるが、それは私の個人的な読み方かも知れない。
黒瀬が自選した自作の短歌の一首目は次の歌である。


地下街を廃神殿と思(も)ふまでにアポロの髪をけぶらせて来ぬ   『黒燿宮』


実際に黒瀬の第一歌集を読み直してこの歌が巻頭二首目にあったので私は驚いた。
私が付箋をつけていたのは22頁目の「風狂ふ」の歌が最初で、この歌に目が届かなかったからである。それはそれとして、黒瀬の文はこの「地下街」の歌に関する菱川善夫と山田富士郎の二つの批評を要約・引用しながら、「可能性」としてこの歌を読む時、どのようにそれは可能かを抑制されながらも強い自負とともに語っている。詳細は本文にあたってもらった方がよいので先へ進める。このあと、黒瀬は第二歌集『空庭』の歌へと言及をすすめ、「短歌研究」に連載され一書としては未刊の「蓮食ひ人の日記」の歌についての記述に至る。
黒瀬がこの文章中でよく使用しているのは「掴み直す」という言葉である。よくよく練られた言葉ではないかと私は思う。
「短歌」に限らず「作品」というものの価値は、本当は漠然としたものではないかと私は思う。
それを踏まえた上で、なお「短歌を詠む=創る」ということに、「自分自身」という他と引き換え不可能な「一物」としての立場や意識から、「短歌を詠む=創る」ということに、手触りのある「言葉=概念」を与えることはとても大事なことである。
そしてすぐれた短歌とは、それが短歌の形式や韻律と不可分なまま、読者に「ギフト」としてそれが手渡されるものがそうなのではないか。
「抒情を掴み直す。」と黒瀬は書く。


明日へわれらを送る時間の手を想ふ寝台に児をそつと降ろせば  「蓮食ひ人の日記」


黒瀬が最後にあげている自作はこの歌である。
ゆりかごから墓場までではないが、寝台に横たわるのは新生児ばかりではない。
自分も、また死にいたった知人や先人もまた最後には「台」に横たわりその生を見送られる。
そんなことを黒瀬は文中では書いてはいないが、「蓮食ひ人の日記」やそれ以降の歌のゆるみとも見紛うなめらかな韻律の感触には、「生存の危機感」を基調とした戦後から前衛短歌に至る「緊張の韻律」を経たゆるやかな平安が見えるような気がする。
もちろんだからといってこの歌が即秀歌であると言っているのではない。
それは「時間」がゆっくり決めていくことだし、時の流れの中で歌壇からも人のこころからも忘れられていけばそれはそれだけのことだ。掴み直されたその抒情が本当に抒情だったのかは、誰よりも黒瀬本人が鋭く問い直すことだろう。
「短歌研究」2012年5月号掲載の「蓮食ひ人の日記」連載11から、詞書を略していくつか歌を引いてこの一文を終えることにする。


腹満ちて眠れる顔は鮟鱇のやうで旅路を照らしておくれ


死ののちも旅つづくかなバースの水買ひてさびしゑ吾もわが師も


吾子の歯を真先に知る乳首羨し南瓜(バターナッツ)を裏漉ししつつ


辛酸はまだ知らざれど赤茄子の酸味に眉を顰める吾子か


              「短歌研究」2012年5月号掲載「蓮食ひ人の日記」連載11より




2013年11月20日水曜日

二十三年後の申開きと二十年後の反省

ネットで自分の名前を検索するというのはいつごろ誰がはじめたことなのだろう。それはそれとしてたまに私もGoogleで自分の「正岡豊」という名前を入れて検索する。いやらしいと思う人はそう思ってくれればいいが、発見もあったりする。さっきしてみた検索では、二つのページが検索で上がって来たので少しそのことについて書いたり関連の資料をあげてみたりしたい。
ひとつめは「短歌周遊逍遥(仮題)〔旧「詩客」サイト企画・「日めくり詩歌」〕という長い名前のサイトで、奥田亡洋、田中教子、永井祐の三人が交替で短歌作品の鑑賞をしているページ。2013年11月18日付で永井さんが私の歌集『四月の魚』の中の「京へ往く自動車(くるま)一台目の前をよぎるこころの柱くだきて」という歌について鑑賞文を書いてくれている。ほとんど言及されることのない一首ではあるので、単純にうれしかった。永井さんありがとう。

「短歌周遊逍遥(仮題)〔旧「詩客」サイト企画・「日めくり詩歌」〕
http://t.co/JwfDgQLgVu

ところでこの歌を含む「君は」という一連は、昨日のこのブログ記事で書いた「獏」という冊子が初出で、雑誌はすべて処分したけどなぜかこの作品だけ紙のコピーが残っているのでjpgでアップしておきます。




読みにくいのはご勘弁ください。見開き二段組の右ページ上から下、次ページ上段、というレイアウトになります。誤植が二つあって、「亡きちらちはは」→「亡きちちはは」、「ざわく翼」→「ざわめく翼」というのがその二つ。ですが原稿が残ってるわけではないので、私が間違えて書いていたのかは不明です。また荻原裕幸さんの尽力による「短歌ヴァーサス」6号の「補遺」のなかでは私は何も言わなかったのですが後者の部分は「ざわめく翼」になっています。歌集そのものは1990年刊行なのですが、この一連を書いたのがいつかはもう忘れました。
一連は、短歌作品が徐々に短くなって詞書になるパートと、詞書がだんだん長くなって短歌作品になるパートが交互に進展してゆく、という体裁を取っています。瀬戸夏子さんの歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』の巻頭に「すべてが可能なわたしの家で」という作品があって、テンションの高い詩的叙述の中にいくつかの短歌の構成要素の単語がパラフレーズされて挿入されるという作品がありますが、ここで私が考えていたことも(というか、文章の中に短歌を溶解させるとか図像の中に短歌を分節化してはめこむとかは今は何も残ってないが結構80年代後半にはやってる人が多かったのです。)そういうのと少し似ているかも知れません。基本文体の塚本邦雄調は今ではバカバカしさも感じはしますがそんなこといったって80年代末に「はねとばされたりするんだろうな」とか「これは何でしょうこれはのり弁」とかいう短歌があったとも私には思えないので(あったよ、という人は教えていただければ嬉しいです)これはこれでしょうがないんじゃないかな、と自分では思います。
このころ考えていたのは例えば一連のタイトルが57577の短歌の様式になっていて作者名もまた57577の様式になっていたらどれが短歌でどれが作者名でどれが題だなどと何が決定するのかというようなことだったと思います。
あと当時大流行だった「現代思想ブーム」の中で「短歌」や「短詩型」を考えていたわけで、「建築へ」という歌はつまり柄谷行人の『隠喩としての建築』から来ています。ですがなんでここで二頭立て馬車が出てくるかとかはもう自分でもわからないし、柄谷の本自体も何が書いてあったのか今となってはさっぱり思い出せないですね。本も処分しちゃったし。ああ、そうそう、『ゲーデル・エッシャー・バッハ』という本もありましたね。「地」と「表」の混淆や逆転のイメージは、たぶんそういうとこからも来てると思います。
「発生学」の歌は別の当時書いた歌「逃げ道を探る一匹の盲獣に襲いかかれり、リンネ・分類学」という歌と対になんていて、「発生」と「存立構造」の差分とか、「分類」の暴力性ということを80年代後期思想カブレバカとして歌に持ち込んでいたわけですね。
軽薄と言えば軽薄ですがさすがにジャック・デリダだかジル・ドゥルーズだかの顔写真がプリントされたTシャツを買うほどではなかったですよ。
でも右手に「エピステーメー」、左手に「ビデオ・ザ・ワールド」、父の書棚には「写真時代」と「デラべっぴん」という当時の雰囲気(「写真時代」とかは昭和9年生まれの父の世代とかが一番楽しんでいたのであって、だから初版の13万部というのもはけたんだと私は思っています。)というのはまあなんかこういう歌の背景として書き付けておきたいですね。
永井さんの一首評自体はとても好意的に読んでもらえて歌としての欠陥は欠陥だけど何か響いてくるものがある、というような内容で作者としてはもうそれで充分だと思います。
「京」と「自動車=くるま」に関して少しだけ申開きがしたいので以下を書きます。
雑誌掲載時の作品一連としては奈良に在住していた「自分」と京都に在住していた一女性との関係の顛末をモチーフに広島・沖縄・奈良・京都という西日本的な列島の弓なり感の上に「流れ」を展開させてます。(そこまで読んでくれと言ってるわけじじゃないよ。)
「京」というのは後半に出てくる「下京」との関連ですね。「下京」は言うまでもなく芭蕉と曽良の逸話における「下京」です。また「自動車=くるま」というのは、あのアホみたいな、本当にアホみたいな、キーンホルツの白人が集団で黒人男性を犯すドクメンタのインスタレーション「五台の自動車群」と関連付けるためにこういう書き方をしていたのですね。
とはいえ、当時も今も「下京」では芭蕉と曽良が一句の上句や下句をあれやこれやと談じているような(実際に下京でその会話がなされたというわけではないにせよ)幻想を私は持つし、「オキナワ」と「トウキョウ」の弓なりの空間を今でも獲物を求めてアメリカ兵が車を疾駆させてるようなイメージが私にはあるのですよ。
というようなことですかねえ。
もうひとつは「文学金魚」さんで、私が昔書いた西川徹朗さんに関する文章が少しだけ触れられていたので、そのことについて書こうかと思いましたが、もうすぐ晩御飯だしそっちはもういいかな。
まあもうちょっと普通に書きゃよかったなあ、とは反省してはいますね。
てゆーかこの釈さんという人が90年代くらいに俳句書いていて徹朗論書いてくれりゃ一番いいようにも思いましたね。
別にこれは釈さんの文章についてじゃないけど、90年はじめ、まともな安井浩司論なんかほんとなかったんですよ。
だから今安井を論じるのはそれはそれでいいことだと思うんだけど今は誰も論じてない人で二十年くらいたったら人がやいやい言うようなものに、きちんと論を立てて欲しいなあ、とは思いますね。
それが「時間を短縮」するということであり、私が瀬戸夏子やしんくわに「才能がある」という意味です。しんくわは本人が「やめちゃった」というからそれはそれでいいんですけどね。
とはいえ宮沢賢治を佐藤惣之助が当時に評価していたからといって、佐藤が偉いかというとそんなこともねえよなあ、とも思いますけどね。
というようなことで。


2013年11月19日火曜日

小池正博さんと川柳

小池正博さんと川柳のことを書く。
小池さんにはじめて会ったのは、「かばん」の関西の歌会のメンバーがはじめて東京からメンバーを迎えて、少しイベントっぽい「拡大歌会」というのを開いたときだった。もう十年以上前のことだと思う。ネットで告知をしたりしてみたし、穂村弘も東京から来て、自由参加、というそれなりに魅力的なイベントだと思ったのだが、一般参加者はそれほど多くもなかったが、歌会としてはかえってやりやすかった。
その一参加者として連絡をくれた小池さんは、そのあと「きさらぎ連句会通信」という小冊子を私に何冊か送ってくれた。今でも大事にとってあるその冊子は、私を驚かせた。
端正な8ページほどの小冊子には、連句というかなり古典性のリゴリズムの方に陥りがちなジャンルの人にはほとんど見られない同時代への他の短詩型のジャンルへの明るい好奇心と、バランスの取れた作品への鑑賞ポジションの位置取りがあふれていて、目を見張った。
実際にその日行われた歌会では、小池さんも短歌を出してくれてその作品は点入れそのものとしては最高点だった。
楽しい会だった。

川柳に関する私の知識は、それなりに偏ってはいる。
私の書いたものをずっと読んでくれている人には繰り返しになってしまうが、元々の私の短詩型の出発点は短詩型文学研究会と名打っていた「獏」というグループだった。入会は高校二年生の時だから、1978年か79年だったのではないかと思う。短歌・俳句・川柳・一行詩という4ジャンルを一冊内で、「高一コース」といった当時まだそれなりに読者がいた学年誌の詩歌投稿欄の投稿者を集めたちょっと変わった冊子だった。
短歌ではまだまだ塚本邦雄の文体の明らかな模倣者が堂々と楽しげにあちこちに歌を発表していた。高柳重信はこの頃はまだ存命だったし、地味な着物の柄のような表紙絵の「俳句研究」もまだ自宅の奈良の近所の新刊本屋には置かれていた。
このころの川柳の現状を、「獏」が詳しく紹介していた、というわけではない。
ただ、短歌や俳句と並列したひとつの文芸のジャンルとして「川柳」というものがある、という感覚は最初から植え付けられた気がした。時実新子、中村富二、定金冬二、といった川柳作家たちの作品や存在を知ったのもこのころだったと思う。また大西泰世さんとはまだ最初の川柳句集『椿事』を出す前に、姫路で会うこともあり、小さな同人誌では一緒になって短い期間を過ごした。「獏」誌上ではないが、その頃何かの縁でいただいた雑誌にあった一行詩の作家だった来空の筆による中村富二論は、強い印象を当時の私に残した。
のちに荻原裕幸が川柳のことを書くときには井上劍花坊の名前を出して来たりするのだが、当時はそんな名前は私はまったく知らなかった。
同時代に短歌や現代詩と同じように、「日常」に重心をかけたり、「難解な文学性」に足をかけたりしながら川柳を書いている人がいる、という感覚、それが当時の私の「川柳」の印象だった。
大西泰世は早くから俳句の書き手には注目されている川柳作家だったが、彼女の存在は関西ローカルではそれなりのきらめきを持っていて、私が一番印象深いのは詩歌の雑誌ではなく、今はなき『プレイガイドジャーナル』という関西のタウン誌での彼女のロングインタビュー記事であり、「ひなげしを買って百日愛される」「棚に手が届いて淋しさにも慣れる」といった初期の彼女の句をおぼえたのものその記事によるものであった。まだ句集が出る前のことであり、なるほど、川柳でもよい作品を書けば一般の人が見てくれるものなのだ、という感覚をそれなりに持つことになった。

2008年、小池さんは『川柳と連句 蕩尽の文芸』(まろうど社)という評論集を出版している。
頂いた時には何も書かずにいて今でも申し訳ないと思っているのだが、細部にいたるまで率直な自他への批評性と、外部の人間にはイメージしにくい近代現代の「川柳史」からその延長線上にある「ジャンルとしての川柳の未来」と、小池さん自身の穏やかだがとても強力な文学意識に満ちた一冊の「本」である。
いくつか強く心を打つ個所を引用してみる。



「過去を詮索するのが目的なのではない。過去にあった議論を継承しないと、同じ議論の繰り返しに終わってしまう危険性があるからだ。いつまでたっても序論から一歩も先に進むことができないのでは悔しいではないか。」(「柳俳交流史序説」)


「川柳というものに関わって評論めいたものを書こうとする限りは、川柳というジャンルの可能性を切り開くものでなければならないと私は思っている。川柳の未来に否定的であるなら、私ははじめから評論など書かないだろう。」
「俳句は文学ではない、という言い方がある。俳句は「詩」ではなく「俳」なのだと。川柳は詩ではない、という川柳非詩論もある。両者は、詩と非詩の二律背反をかかえこむ形式である連句の血脈を受け継いでいるのだ。「走尾」4号の「テーマへの呼びかけ」で「現代連句がすなわち現代の俳諧ではないと、誰もが感じてはいるだろう」という一節には、ドキリとさせられた。現代連句は現代の俳諧ではない。これは辛い認識である。」
「短詩型のことを考えるときの出発点として、いつも念頭にあるのは廣松保の次の言葉である。「非詩的な要素をもっていることによって、言いかえれば詩としては未分化であることによって、その俳諧は文学的なある高みに到達しているのかも知れない」「非詩的な、あるいは反詩的な要素をもっているがゆえにそれは詩作品としてすぐれているという逆説的な関係がそこにはあるのではないか」(「自律的ジャンル史観について」)」(「柳俳交流余談」)


「消える文芸・蕩尽される文芸・無名性の文芸に心をひかれながら、それを形に残しておきたい気持ちが同時にあるのも事実である。本書はそういう二律背反する思いの中で、こういう形にまとまった。もとより、書物として完全なものではないが、未完成・未了性はのぞむところである。先へ進む精神を私は連句から学んだのではなかったか。」(「あとがき」)


小池さん自身は、おっとりした風貌の中に関西人特有のどこか憎めない人懐っこさを感じさせるひとである。多くの文芸や表現のジャンルにかなり精通してるのだろうが、知識をひけらかすといったたぐいのところが全くなく、そういうところはとても関心させられる。実生活のことはほとんど何も知らないに等しいのだが、「生活」と「家族」というしっかりした基板に支えられていなければ、実はそれだけで生活の糧を得にくい短詩型の活動などそうそう続けられるものではない。また各地の連句大会は行政と絡んだ一種の「行事」として展開されることも多く、そうしたものとの関わりの煩雑さを厭わないタフなメンタリティがないとこれもまたそうそうやっていけるものではない。
そういう意味では「小池正博」というのはとても稀有な存在なのである。
2013年現在、ネットでは如月和泉名義で週刊更新で「川柳時評」を書き続けている。
リンク先→「川柳時評」
その文章とともに小池さんの二冊の句集や、『川柳と連句 蕩尽の文芸』も、未読の方は手に取っていただくと嬉しく思う。















2013年11月18日月曜日

「里」の「ハイクラブ」投句をアップする

新しくブログを作成した。単純にはてなのブログがスマートフォンなどですごく見にくいから。私の使い方が悪いのもあるのだが。

今年の夏から、俳句誌『里』に開かれた佐藤文香さんの選句欄、「ハイクラブ」に投句している。とりあえずはそちらを掲載するのが目的。
佐藤さんの選句欄は、『里』の編集長の島田牙城さんが、歌誌の「未来」で黒瀬珂瀾や笹公人が選者になったのに刺激を受けて作った欄で、盛り上がればいいな、と思って投句を続けている。とはいえ、「俳句」の気流のようなものはこうした選句欄よりもっと直接的な「もの」や「関係」を主流として変化を体現させているような感じもする。あてがはずれたとも思わないが、作句や投句そのものは楽しいので続けている。

ということで下記に選句されたものを書き写す。


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◇「里」八月号


夜よさてみずうみと入れ替わろうか

坂と前髪葛餅食べて女学生

夏闇にほのじろくある脱脂綿

時計草咲いて古本屋は休み

弁当のなかの蕗煮のみどりかな



◇「里」九月号

睡蓮の立ち咲く家もわが家かな

伊勢丹へ夏のおしゃれをして参る

水星の白さの夏のヨーグルト

噴水におとなとこどもこんぶあめ

本のようなノートが好きできりぎりす



◇「里」十月号

かき氷とはこぼれ落つものである

ゆうぞらやうちわにりんと小向日葵

焼きそばを焼く人の汗ハーモニカ

山は夏豆腐屋ぴいとひるの街



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旧「俳句空間」に投句していたころの句「背中を砂の模様にさるおがせは祈る」とか「わかりやすいものをさがしてるのね昔の恋人の下着みたいな」といった句と比べるとはるかに既成の俳句のステロタイプに寄り添った句になっている。
これは佐藤の選のせいではなくて、私が意識的にそういう句を作っているのである。
私は今でも「ピアノに映れ服一着分の青空/夏石番矢」(句集『人体オペラ』より)とか、「星狩りに出掛ける 岬へ ノッポの父につき/坪内稔典」(句集『朝の岸』より」)といった句がとても好きだ。
一絡げにしてくくるのは、多くの他のものを切り捨てることになるので良いことではないが、こうした過去の俳句の達成点を十分に憧憬しながらなお何か過剰なものを俳句に盛り込み、、しかもそれを自らの「俳句」として提出=現前化させようとする、2013年の現在ではただのカッコつけのようにしか見えない「ポーズ」と主体がいっしょくたになったような句が、今でもとても好きである。
しかしこれはこれで「時代」やそれぞれの俳句の作り手たちの「出自」が意識無意識に重なったときに、出来たものだろう。
ならばいま、自分の中で「俳句」とはとりあずどうやれば「可能」なのか。
ということをむきになるわけではないが、多少は真剣味を帯びて、考えてはいるのである。
もちろんそんなことを考えた上で読んで欲しいなどと言っているわけではない。
詩だろうが俳句だろうが、書かれたもののとんでもない量のもののそのほとんどは消えてゆく。残ったものにしか価値は見出されない。
それはそれで「現実」であり「まっとう」なことだが、たとえ残らなくてもどこかに「俳句」なら「俳句」のことを「考え」、こうではないか、これが「俳句」なのではないか、と微力ながらも重ねた試行錯誤は、この世のどこかに「何か」を残すのではないか、と私はこころのどこかで本当にそう思っているようなのである。
つまり、そういう「ほんとうの俳句」というような「幻想」が私の「出自」なのだ、というようなことをここで書いたわけである。

長くなっちゃった。
とりあえずこのあたりで手を置いて、陽がかかげる前に、二階の洗濯物を入れることにします。