2013年11月20日水曜日

二十三年後の申開きと二十年後の反省

ネットで自分の名前を検索するというのはいつごろ誰がはじめたことなのだろう。それはそれとしてたまに私もGoogleで自分の「正岡豊」という名前を入れて検索する。いやらしいと思う人はそう思ってくれればいいが、発見もあったりする。さっきしてみた検索では、二つのページが検索で上がって来たので少しそのことについて書いたり関連の資料をあげてみたりしたい。
ひとつめは「短歌周遊逍遥(仮題)〔旧「詩客」サイト企画・「日めくり詩歌」〕という長い名前のサイトで、奥田亡洋、田中教子、永井祐の三人が交替で短歌作品の鑑賞をしているページ。2013年11月18日付で永井さんが私の歌集『四月の魚』の中の「京へ往く自動車(くるま)一台目の前をよぎるこころの柱くだきて」という歌について鑑賞文を書いてくれている。ほとんど言及されることのない一首ではあるので、単純にうれしかった。永井さんありがとう。

「短歌周遊逍遥(仮題)〔旧「詩客」サイト企画・「日めくり詩歌」〕
http://t.co/JwfDgQLgVu

ところでこの歌を含む「君は」という一連は、昨日のこのブログ記事で書いた「獏」という冊子が初出で、雑誌はすべて処分したけどなぜかこの作品だけ紙のコピーが残っているのでjpgでアップしておきます。




読みにくいのはご勘弁ください。見開き二段組の右ページ上から下、次ページ上段、というレイアウトになります。誤植が二つあって、「亡きちらちはは」→「亡きちちはは」、「ざわく翼」→「ざわめく翼」というのがその二つ。ですが原稿が残ってるわけではないので、私が間違えて書いていたのかは不明です。また荻原裕幸さんの尽力による「短歌ヴァーサス」6号の「補遺」のなかでは私は何も言わなかったのですが後者の部分は「ざわめく翼」になっています。歌集そのものは1990年刊行なのですが、この一連を書いたのがいつかはもう忘れました。
一連は、短歌作品が徐々に短くなって詞書になるパートと、詞書がだんだん長くなって短歌作品になるパートが交互に進展してゆく、という体裁を取っています。瀬戸夏子さんの歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』の巻頭に「すべてが可能なわたしの家で」という作品があって、テンションの高い詩的叙述の中にいくつかの短歌の構成要素の単語がパラフレーズされて挿入されるという作品がありますが、ここで私が考えていたことも(というか、文章の中に短歌を溶解させるとか図像の中に短歌を分節化してはめこむとかは今は何も残ってないが結構80年代後半にはやってる人が多かったのです。)そういうのと少し似ているかも知れません。基本文体の塚本邦雄調は今ではバカバカしさも感じはしますがそんなこといったって80年代末に「はねとばされたりするんだろうな」とか「これは何でしょうこれはのり弁」とかいう短歌があったとも私には思えないので(あったよ、という人は教えていただければ嬉しいです)これはこれでしょうがないんじゃないかな、と自分では思います。
このころ考えていたのは例えば一連のタイトルが57577の短歌の様式になっていて作者名もまた57577の様式になっていたらどれが短歌でどれが作者名でどれが題だなどと何が決定するのかというようなことだったと思います。
あと当時大流行だった「現代思想ブーム」の中で「短歌」や「短詩型」を考えていたわけで、「建築へ」という歌はつまり柄谷行人の『隠喩としての建築』から来ています。ですがなんでここで二頭立て馬車が出てくるかとかはもう自分でもわからないし、柄谷の本自体も何が書いてあったのか今となってはさっぱり思い出せないですね。本も処分しちゃったし。ああ、そうそう、『ゲーデル・エッシャー・バッハ』という本もありましたね。「地」と「表」の混淆や逆転のイメージは、たぶんそういうとこからも来てると思います。
「発生学」の歌は別の当時書いた歌「逃げ道を探る一匹の盲獣に襲いかかれり、リンネ・分類学」という歌と対になんていて、「発生」と「存立構造」の差分とか、「分類」の暴力性ということを80年代後期思想カブレバカとして歌に持ち込んでいたわけですね。
軽薄と言えば軽薄ですがさすがにジャック・デリダだかジル・ドゥルーズだかの顔写真がプリントされたTシャツを買うほどではなかったですよ。
でも右手に「エピステーメー」、左手に「ビデオ・ザ・ワールド」、父の書棚には「写真時代」と「デラべっぴん」という当時の雰囲気(「写真時代」とかは昭和9年生まれの父の世代とかが一番楽しんでいたのであって、だから初版の13万部というのもはけたんだと私は思っています。)というのはまあなんかこういう歌の背景として書き付けておきたいですね。
永井さんの一首評自体はとても好意的に読んでもらえて歌としての欠陥は欠陥だけど何か響いてくるものがある、というような内容で作者としてはもうそれで充分だと思います。
「京」と「自動車=くるま」に関して少しだけ申開きがしたいので以下を書きます。
雑誌掲載時の作品一連としては奈良に在住していた「自分」と京都に在住していた一女性との関係の顛末をモチーフに広島・沖縄・奈良・京都という西日本的な列島の弓なり感の上に「流れ」を展開させてます。(そこまで読んでくれと言ってるわけじじゃないよ。)
「京」というのは後半に出てくる「下京」との関連ですね。「下京」は言うまでもなく芭蕉と曽良の逸話における「下京」です。また「自動車=くるま」というのは、あのアホみたいな、本当にアホみたいな、キーンホルツの白人が集団で黒人男性を犯すドクメンタのインスタレーション「五台の自動車群」と関連付けるためにこういう書き方をしていたのですね。
とはいえ、当時も今も「下京」では芭蕉と曽良が一句の上句や下句をあれやこれやと談じているような(実際に下京でその会話がなされたというわけではないにせよ)幻想を私は持つし、「オキナワ」と「トウキョウ」の弓なりの空間を今でも獲物を求めてアメリカ兵が車を疾駆させてるようなイメージが私にはあるのですよ。
というようなことですかねえ。
もうひとつは「文学金魚」さんで、私が昔書いた西川徹朗さんに関する文章が少しだけ触れられていたので、そのことについて書こうかと思いましたが、もうすぐ晩御飯だしそっちはもういいかな。
まあもうちょっと普通に書きゃよかったなあ、とは反省してはいますね。
てゆーかこの釈さんという人が90年代くらいに俳句書いていて徹朗論書いてくれりゃ一番いいようにも思いましたね。
別にこれは釈さんの文章についてじゃないけど、90年はじめ、まともな安井浩司論なんかほんとなかったんですよ。
だから今安井を論じるのはそれはそれでいいことだと思うんだけど今は誰も論じてない人で二十年くらいたったら人がやいやい言うようなものに、きちんと論を立てて欲しいなあ、とは思いますね。
それが「時間を短縮」するということであり、私が瀬戸夏子やしんくわに「才能がある」という意味です。しんくわは本人が「やめちゃった」というからそれはそれでいいんですけどね。
とはいえ宮沢賢治を佐藤惣之助が当時に評価していたからといって、佐藤が偉いかというとそんなこともねえよなあ、とも思いますけどね。
というようなことで。


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