2013年11月18日月曜日

「里」の「ハイクラブ」投句をアップする

新しくブログを作成した。単純にはてなのブログがスマートフォンなどですごく見にくいから。私の使い方が悪いのもあるのだが。

今年の夏から、俳句誌『里』に開かれた佐藤文香さんの選句欄、「ハイクラブ」に投句している。とりあえずはそちらを掲載するのが目的。
佐藤さんの選句欄は、『里』の編集長の島田牙城さんが、歌誌の「未来」で黒瀬珂瀾や笹公人が選者になったのに刺激を受けて作った欄で、盛り上がればいいな、と思って投句を続けている。とはいえ、「俳句」の気流のようなものはこうした選句欄よりもっと直接的な「もの」や「関係」を主流として変化を体現させているような感じもする。あてがはずれたとも思わないが、作句や投句そのものは楽しいので続けている。

ということで下記に選句されたものを書き写す。


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◇「里」八月号


夜よさてみずうみと入れ替わろうか

坂と前髪葛餅食べて女学生

夏闇にほのじろくある脱脂綿

時計草咲いて古本屋は休み

弁当のなかの蕗煮のみどりかな



◇「里」九月号

睡蓮の立ち咲く家もわが家かな

伊勢丹へ夏のおしゃれをして参る

水星の白さの夏のヨーグルト

噴水におとなとこどもこんぶあめ

本のようなノートが好きできりぎりす



◇「里」十月号

かき氷とはこぼれ落つものである

ゆうぞらやうちわにりんと小向日葵

焼きそばを焼く人の汗ハーモニカ

山は夏豆腐屋ぴいとひるの街



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旧「俳句空間」に投句していたころの句「背中を砂の模様にさるおがせは祈る」とか「わかりやすいものをさがしてるのね昔の恋人の下着みたいな」といった句と比べるとはるかに既成の俳句のステロタイプに寄り添った句になっている。
これは佐藤の選のせいではなくて、私が意識的にそういう句を作っているのである。
私は今でも「ピアノに映れ服一着分の青空/夏石番矢」(句集『人体オペラ』より)とか、「星狩りに出掛ける 岬へ ノッポの父につき/坪内稔典」(句集『朝の岸』より」)といった句がとても好きだ。
一絡げにしてくくるのは、多くの他のものを切り捨てることになるので良いことではないが、こうした過去の俳句の達成点を十分に憧憬しながらなお何か過剰なものを俳句に盛り込み、、しかもそれを自らの「俳句」として提出=現前化させようとする、2013年の現在ではただのカッコつけのようにしか見えない「ポーズ」と主体がいっしょくたになったような句が、今でもとても好きである。
しかしこれはこれで「時代」やそれぞれの俳句の作り手たちの「出自」が意識無意識に重なったときに、出来たものだろう。
ならばいま、自分の中で「俳句」とはとりあずどうやれば「可能」なのか。
ということをむきになるわけではないが、多少は真剣味を帯びて、考えてはいるのである。
もちろんそんなことを考えた上で読んで欲しいなどと言っているわけではない。
詩だろうが俳句だろうが、書かれたもののとんでもない量のもののそのほとんどは消えてゆく。残ったものにしか価値は見出されない。
それはそれで「現実」であり「まっとう」なことだが、たとえ残らなくてもどこかに「俳句」なら「俳句」のことを「考え」、こうではないか、これが「俳句」なのではないか、と微力ながらも重ねた試行錯誤は、この世のどこかに「何か」を残すのではないか、と私はこころのどこかで本当にそう思っているようなのである。
つまり、そういう「ほんとうの俳句」というような「幻想」が私の「出自」なのだ、というようなことをここで書いたわけである。

長くなっちゃった。
とりあえずこのあたりで手を置いて、陽がかかげる前に、二階の洗濯物を入れることにします。
 

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