2018年1月27日土曜日

『永遠集』山田露結句集 を読みました

 俳句にはいつも「秀句」とは何かという問題がつきまとう。
 ここで「つきまとう」という修辞を選ぶのは適切だろうか。「という問題が含まれている」とか、「(作句するものには)指の先端にまで無意識にそれが伝搬する」とかの方がいいだろうか。
 作句するときは秀句云々など意識せず、おもむくままに句をなしているのであなたの言うことは間違ってるよ、という人もいるだろう。それはそれでいいのではないか。
 ただ、私としては、やはりこれは「つきまとう」でいいのではないかと思う。
 私がこのものいいをするのは、俳句というのは「秀句」という名のまぼろしのストーカーとともに歩み続ける文芸の一形態だと私が感じているからである。
 俳人の山田露結さんから句集『永遠集』を寄贈していただいた。
 かたじけなくまたありがたいことである。
 山田さんには『ホームスウィートホーム』という句集らしからぬ名前の第一句集があり、開板された当時読了し、大変感銘を受けた記憶がある。もうなくなってしまった京都イオンの2階の居心地のよい喫茶店で初読した。とさほど書くこともないことを記述するのは高山れおなのある座談会での「一階か二階かは川名大にはとても大事なこと」といった発言をよく私が思い出すからである。
 うーん。今日の私の文章はなんかくどいな。まあいいか。
 『永遠集』はてのひらでかくれるほどのサイズの豆本である。
 装幀造本は、こうした瀟洒でうつくしい手作りの本を作っている、佐藤りえの手による。-「なるべく小さな句集」を作ってみたい-と山田さんは思ったらしい。そこには山田さんのいろんな思いがあるような気がする。
 句を見ていく。


 花菜漬やさしい人がやさしすぎる

 眼をあけて見る夢かなし初桜


 どちらもナイーブな感性が少しゆるめの記述の感覚とともに句に定着されていると思う。ゆるめの感覚というのは、作者本人が句に「新」や「変」を求めながらも、やさしさやかなしさという定型的な感性のありようもちようを俳句の大事な部分だと思っているからではないかと考える。


 スペシウム光線で勝つはるうれひ


 ウルトラマンはたいていスペシウム光線で怪獣に勝つ。最初から出せばいいのに、とよく私も思う。
 というようなことだけではなくて、平成のこのあたりの時代の、「スペシウム光線」という言葉やそれが指し示すある「雰囲気」を本人は大事にしたかったのではないかと思う。句からアクロバティックな感じがあんまりしないのはそういうことではないかと思ったりする。


 木犀や悲しい歌がまだ悲しい

 すぐに来てしまふ未来や鰯雲


 短歌や俳句のような短い詩型では、繰り返して一語が出てくるというのは永遠にそれが繰り返されるということだ、というようなことを穂村弘がどこかで書いていた。やさしい人のやさしさも悲しい歌の悲しさも、実はどうしようもないことだったりする。それは木犀が木犀であったり、花菜漬が花菜漬であったりするのと同じことなのではないか、という意識や無意識がこの句をささえているように思う。そういう感性には、歩行と同じように、時が流れていくように思えるのかもしれない。
 三歩の道を三歩で歩く、というようなことを、いつかどこかで佐藤佐太郎がいってた記憶がある。
 それでもすぐに、未来が来たように感じることも、そりゃああるかもね。
 とはいえ、小さなこの句集を読んで思われるのはやはりこの拙文の冒頭に書いた「秀句」との、山田さんの「葛藤」であるような気もする。
 2018年の今、「まだ上げ初めし前髪の」と書いたところで、仮にそれが史上はじめて書かれたフレーズであったとしても耳目を集めるとはとうてい思えない。
 仏教の経文に「常与師倶生」、人はいつも世に生まれるとき常にその師とともに生まれてくる、というスターウォーズみたいな一語があるけれども、秀句秀作ベストセラー大ヒットといっても時にあわなければそういうことにはなりえないが、そう簡単に作品も人間も生まれる時を選択できるものではない。短詩型というのは関係性の詩型でもある上に、時代時代の積層した言語のディスクール上で常に評価や判断がくだるのはいたしかたない。
 忘れられた作者は、負けた作者ということになってしまう。
 スペシウム光線でやられた怪獣たちのように。
 しかし私も長く短歌を書いてきて思うのだけれども、短歌とともに生きる、俳句、川柳でも詩でもいいのだが、その「ともに生きる」ということの内実というものはまた、余人にたやすくわかりがたい宝珠のようなものもであるのではないだろうか。
 結局、どこかになにもかもをひっくるめ、飲み込んでもなおくじけない「超肯定」のようなイメージがあって、そこから逆照射されるようにすべての詩歌は作られ読まれてるのではないか、とふと思ったりする。
 おおげさな話になってしまい申し訳ない気もするが、時代がなにやら「超脱力」をめざして進行しているようないま、より大きな肯定感を求めて、筆を進めるとしたら、それは誰かの顔にふっと笑いを浮かべるものであるかもなあ、と思ったりもする。
 最後にもう一句ひいておく。


 大阪を異国と思ふクリスマス


 「京都」でも「和歌山」でもなく、大阪を異国と思う感覚というのは私も共感するのだけれど、それでいいのかな、と思ってしまうのも事実ですね。いい句だと思いますけどね。ではでは。