安田さんのことはほとんど何も知らない。ツイッターで、私が何か書くと、早いタイミングでお気に入りによく入れてくれること。平井弘や村木道彦をよく読んでいるらしいこと、数年前まで早稲田短歌会にいて、今は自分で人を集めて歌会をやっているらしいこと。あ、独身男性だと思ってるけど、これは確かめたわけじゃない。
まあ私が彼について知ってることはそれくらいです。
へそ、さんという名前でツイッターをしていたので、こういう名前だというのは今回はじめて知りました。
でそのネットプリントの短歌作品「ザオリク」についてこれから書きます。
ちなみに「ザオリク」というのはゲーム「ドラゴンクエスト」シリーズで出てくる回復呪文の名前ですね。私はそんなにドラクエやってないです。三本くらいクリアしただけね。
私は自分がおもしろいと思うものは、あんまり人はおもしろいと思わないのではないか、という意識が強い方です。余計なプライドのせいか、単に短歌なら短歌の「好み」が偏向しているだけか、その両方ですかね。
この一連もおもしろい、というのは躊躇するところがあります。
けれど結構何回も読み返してしまったりする。
それはつまりおもしろいと思ってるのかも知れません。
ただ多少自分の作品と似てるところもあって、そういうものを「おもしろい」というのは結局自分の書いたものをおもしろいといってるのに近いので、それでためらうところもありますけどね。
似てる気がするのはこういう歌。
本編で語られなかった花たちの学名が巻末にいちめんに 安田直彦
いちめんに「ある」、あるいは「載っている」というのが、省略されてるわけですが、この省略には短歌作品一首から文語の部分を押し出す、という要素があると思います。書かれている内容はある本の巻末に、花の学名がたくさん載っているというだけのことなので、それが語順と、文体と拮抗するように現れる短歌定型が生成するリズムによって、何か別の感覚を生み出しているように思えるのですね。
ただこういう歌は読者にかける「負担」が大きいのではないですかね。
ツイッターで「いまどき難しいことをやってる人がいる」と書いたのは、その「負担」の部分が大きいです。
私には現在の(ここ数年、くらいの意味です)短歌の大部分は、一次的な共感というものをベースにおいて書かれてるように思えます。それが悪いとは全然思わないし、そういう中でも、優劣や完成度の高低というのをそれなりにみな競い合ってるわけですから、何もみんな「簡単」なことをやってるわけではないですよね。
でも私はつまらないですけどね、そういうのは。
短歌というのは「共有」の詩型だと思います。
他のジャンルのことは煩雑になるのでしばらく置きます。
五七五七七の音数律が、という言い方は短歌の定義としてはその通りなのですが、実際には過去の短歌作品やら、短歌そのものの日本なら日本での文化的なステータスだとかはある程度大なり小なり意識しているし、そういうものから作り手は自分なりに「短歌」を切り取るようにして一首を意識無意識に作っていき、そして人に読ませようとするわけですね。
次の歌も私は比較的難しい方の歌ではないかと思います。
聖蹟のちかくで春のあしくびを美の埒外の泉にひたす 安田直彦
端正で綺麗な歌ですが、「聖蹟」「埒外」という音韻的には核になるような単語が、どうにも目立ってしまいます。
さきに「共有」という言葉を出しましたが、難しく、また、「いまどきこういうものを書くのかよ」と思わせるのは、作者の安田さんの「定型詩」意識であるように私には思えます。
あきらめるよりもはやくあきらめのことばがくちから出てしまいそうになりあわてて雪虫に変える 安田直彦
こういう歌にしても私の自作の歌に多少似ているところがあるのですが、ひとつは「定型」の「偽装」感ですね。定型詩を詠んでいながら、その定型詩にどこかで「脱出」の感覚を持たせたい、というところから、こういう破調の歌が出来てくるのではないですかね。ただそのときに、きっちりとした定型の様相を歌が見せなくなるのは、どこかでこういう歌の詠み手が「奈落」を意識しているからですね、多分。
「奈落」に落ちたくないわけですよ。
ここが、私はなかなか歌を作っている人にも、「共有」されにくいところではないかと思います。
ましてや、「短歌」というものに深く関わっていない一般のひととなるとなおさらですね。
それでも、「時代」というものが、そういう「奈落」との関係性の中で、「定型詩」というものを強制的に書かせようとする時期というのは、かつてはあったように私は思います。今はそういう「時代」ではないですね。そのことに対するくわしい分析や解析をここで述べてもあまり意味はないように思います。
ということを考えたあとで、安田さんの歌に対する感想をまとめると、「いい歌だといいにくいいい歌」ですね、ということになると思います。
いい歌だといいやすいいい歌、というのがそれではあるのか、という反語的な思考がわいてきますわね、こう書くと。
あるにはあるでしょうが、小さな声で言わせてもらえば、私にはそれは「結局どうでもいい歌」のことだ、ということになります。
最後の方はかなりひとりよがりの文章になりましたけれど、とりあえずそんなところで。